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モンゴルつれづれ草

アルタイ山脈(4千M)、と遊牧民のゲル。向こう側は中国のゴビ砂漠。


モンゴルに到着

64歳の生川清二(おいかわ・きよじ)は涙を流していた。 着陸態勢に入った飛行機の窓から、眼下の闇に広がる首都、ウランバートルの光を眺めていた。2007年12月15日夜中の11時。北国の高原は身を切られるように寒い。

外は零下20度C。チンギス・ハーン国際空港の薄暗いロビーでは出迎えの人々の目が異様に光っていた。モンゴル語の客引きの大声がロビーに飛び交う。人々からなつかしい平原の土と家畜の臭いがする。清二は、大勢の中で笑顔いっぱいで出迎えの手を振っていたエルデナを見つけ、再会を喜び抱き合った。彼女の案内で50M先のタクシー・プールまでリックを左肩に、右手に紙袋を持ち、首をすくめて歩く。成田空港を出発してから直行便で6時間過ぎた。

隣に座っている25歳のエルデネはモンゴル国立科学技術大学を卒業したエリートである。19歳で学生結婚して、現在5歳の男の子がいる。在学中に日本語と英語を学んだ。卒業を待たずに夫は「さようなら」で、彼女はシングル・マザーだ。彼女の父はカザフスタン人で母親はモンゴル人である。顔も身体も純粋のモンゴル系ではない。車が揺れるたびに、彼女の大きな尻が清二の尻にぴったりくっついて温かい。頭髪からは異民族の臭いがする。身長が165CM、バストが90CMもありそうな、やや太り気味で色白、目が大きく、まつげが長い。下唇の下に黒い小さなほくろがある。頭髪は長く黒く輝き、女盛りを感じさせる。

彼女は2年前から、清二が主宰している国際ボランテイア活動に常用で雇われている。モンゴルの貧しい家庭の子どもの教育救援事業は7年目である。彼女は清二にとって手足となる貴重な助手だ。現地スタッフは外に4名だ。

日本製の中古車の白タクは、薄暗い首都、人口120万人のウランバートルの中心部を左手に見て突っ走る。モンゴルでは車はどれでも客を乗せることができるのだ。
車は客2人と荷物を載せて、舗装がはがれて、がたがたの道を、首都の北東、約20KM先の山のふもとにある事務所兼宿泊所目指して、夜道を突っ走る。

清二の団体は、首都の北東の、ダンバダルジャー地区の#58学校の片隅を借りて、「モンゴル支援の本拠地」にしている。主要道路のそば、スラム街(ゲル地区・ゲルは移動式テント)である。首都の人口の半分、約70万人がゲル地区で生活している。旧日本陸軍の捕虜の犠牲者慰霊塔はここから2KMほど山に入ったところだ。 夜で見えないが山は半砂漠のため緑がない。

住み込みの新卒の23歳の男のムクが出迎えてくれた。彼は少し日本語がわかる。エルデンネと同じ学校を卒業したが、他に仕事がなかった。
国際飛行場から車で30分だ。春に日本から援助物資を運んだ、20FT海上鉄製コンテナ2個を並べ、隣には子どもが絵本を読むことができるゲル利用の図書館だ。この敷地には今年の9月に移動してきた。日本で集めた絵本をモンゴル語に翻訳して、子どもたちに読んでもらう教育支援は7年目になる。

fuyunoubger

ウランバートルの周りを高い山で囲まれていて、大きな盆地になっている。そのせいで、冬はひどい、市内の建物が見えないほどの煙に悩まされている。郊外に広がるゲル地区で、暖房に石炭、薪を燃やすためだ。風が吹かないときは、盆地に煙が集まってしまうのだ。このときは服にも煙の臭いがついてしまう。

市内のアパートは、集中暖房と上下水道が完備しているので、ゲル地区の人々にとっては、アパートに住めることが願望だ。しかし、アパートに住める人は金持ちに限られている。貧富の差が、人間性の差にもなっている。





社会基盤(インフラ)ゼロのゲル地区。約70万人が住んでいる。
親に捨てられる子どもや、極貧の母子家庭が多い。モンゴルの生活は厳しい。


清二は、留守中にモンゴル人に内部の断熱工事を依頼していた。ストーブに石炭を入れた。これで暖かい。とりあえず、援助物資の段ボール6個を並べた上に、ベニヤ板2枚を敷いた。マットをひろげて、その上に敷布3枚を敷いて、靴下を履いたまま、寝袋2枚の中に冬服のままもぐりこんだ。


悲しい出来事

外は静かで厳寒のモンゴルだ。清二は横になって過ぎ去ったことを思い出した。涙が枕を濡らした。 の夏は、64年の人生で一番悲しい、つらいことがおきてしまった。生きることはつらいことだ。もう、あの華やかだった自分の過去を忘れよう。これからはこのスラム住民と同じ環境で暮らそう。これからは懺悔の日々だ。

1時間ほどでイレに起きた。懐中電灯片手に内側から鉄製のコンテナに溶接して、安全のための鎖をつけていた錠をはずして、手が届くくらい近い数百万の星を見つめながら、立小便をした。ぶるっと大きく身体を震わせた。
気温は零下30度くらいになるだろうか。大急ぎでコンテナに入り、再びストーブに石炭をいっぱい入れた。これでコンテナの中は日の出まで暖かい。

眠れない。急ごしらえのベッドの中で、過ぎ去ったことを思い出す。今回モンゴルに来たのは5回目だ。 7月に日本の自宅に一時帰ったときが、64歳の妻、和美と息子との永遠の別れになった。自宅は小田急線の新百合丘でこの20年くらいで、それまの畑から高層の建物が乱立する都市に変化した近所の一軒家だ。 清二は22歳の長男の洋(ひろし)とはこの5年くらい話をしていないのだ。彼が中学生になって悪友にいじめられているのを、父親の清二は守ってやれなかったのだ。清二は心から今後悔している。息子に手を合わせ
て謝りたい。しかし、もう、遅い。息子はいなくなった。

清二はかつての楽しかった我が家をふりかえり、号泣した。
生きることはつらいことだ。

清二は17年前、48歳のとき、アメリカの証券会社東京支店で、M&A(企業の合併&買収)部門で華やかな仕事をしながら、休日はすべてボランテイア活動に時間を当てたのだ。最近まで平均睡眠時間が5時間だった。妻は「お父さん。洋は男親が必要だよ。あなたは育児放棄ですか?」と詰問される日々だった。

妻は、「仕事がそんなに多忙なのに、ボランテイアをやめて、休日は家にいてください。何があなたをそんなに駆り立てるのですか?」「あなたも、ボランテイアは批評するだけにしてください。我が家が崩壊します。あなたは自分のしたいことだけをして、家のことは全部わたしまかせ。」と言われてきた。

清二は苦し紛れに、「自分は安全な場所にいて、他人の行いを批評するのは自分の生き方ではない。」と弁解したのだった。

世直しをして社会正義を求めて、行く末が家庭が崩壊とは、なんと皮肉だ。

清二は今、結論を得た。家族は金でなく愛だ。

清二は長女の雅子(25歳)にも日常的に、妻の和美と同じことをいわれ続けた。清二にとって、ボランテイア活動は職場での息が詰まりそうな時間からの離脱だった。しかし、家族には別問題だっただろう。清二はアジアを対象とした、「子どもを飢えから救う会」を48歳のときに立ち上げ現在に至っている。理由は、清二の外に、だれも会長を引き受ける者がいなかった。また、大勢の飢えた子を目の前にして、会の運営は放棄できなかった。
清二は、少なくと、自分の子も含め、日本の子は食べることに心配がないので、今日を生きるだけで明日がない子を優先させたのだ。

清二は2人の子どもたちが、いつかは、親父のことを理解してくれると信じている。

清二と和美の出会い

和美は清二の秘書だった。生まれた年も同じなので、時々、金曜の夜はカラオケを楽しんだ。歌うのはいつも同じ曲だった。和美は英会話も英文の速記もできたので、清二には貴重な片腕になった。彼女は仕事が速く、確実だった。 大型商談にも同席したこともある。清二がアメリカ留学から帰り、ウイルソン・ゴーマン証券に入社した2年後、それまでのパートの秘書から本採用を募集したときに、清二が大勢の応募者から彼女を直接面接して選んだ。

彼女は西武新宿線の小平駅近くに一人で住んでいた。
推定だが、身長は160CM,体重は50KGS。ほっそりして長身。目が丸く大きくて、髪が背中まで長く、きれいだったが、とても自尊心が強かった。
歩くときは背を直立に伸ばし、両足だけ靴音を立てて歩くのが特徴だ。
21歳のとき、生まれ故郷の京都でで激しい失恋を経験してから、男には縁がなかったという。仕事が生きがいの毎日だった。

和美は、清二と同じ会社で働くようになって、残業にも付き合ってくれた。ある金曜日の夜、イギリスの大手銀行と日本の中堅証券会社の合併を取りまとめた夜だった。このM&Aに携わった清二のチーム10人ほどが、赤坂で夕食した。ほろ酔いになった和美は清二を誘って静かなパブに2人だけで深夜まで飲んだ。

最終電車もなくなり、和美は、清二が一人で住んでいた、川崎の宮前のマンションにタクシーで同行した。
気持ちよく酔った2人は、素っ裸になって、一緒に風呂に入り子どものようにはしゃいだ。風呂から上がった2人は、暖かくなった身体を柔らかなダブルベッドに入っていった。

2人は、それ以降、時々そのような付き合いを続けた。
もう、秘書と部長の関係でなく、事実上の「夫婦」だった。

37歳のとき、和美が妊娠して退職した。「できちゃった婚」だった。
長女の雅子が生まれた。
その3年後に長男の洋が生まれた。和美が42歳の出産だった。
妻は、特に、高齢出産の洋を溺愛した。
小田急新百合ヶ丘駅の近くの一戸建て住宅に引越しして、10数年間は幸せな、平凡な家庭だった。
家族は、常に、子どもたちの歓声が響いていた。

今では「昔の物語」になった。


家庭崩壊

長男の洋は身長185CM,体重60KGSで靴のサイズは28である。食べて寝るだけにしてはほっそりだが、20歳ころから、腕力は父親を超えるようになった。姉の雅子の影響で、唯一の趣味はテレビでNBA(アメリカのプロバスケット・ボール)の試合を見ることだった。

洋は5歳頃、居間のテレビでアフリカの飢饉で、やせ細った乳児を抱いている母親の映像を見て、
つかつかと走っていった先が、なんと、米びつだった。

「お父さん、これ」と、米をわしづかみにした洋は、テレビの中子どもを救いたいのだった。
洋は、本当は、気の優しい精神の持ち主だ。

清二は、何が生きようとも、洋の未来を信じている。


清二は長時間の仕事と、職場の人間関係のストレスと、家に帰れば、半閉じこもりと暴れて家具を壊す長男、そのはざまで苦悩する妻と長女(18歳でアメリカの大学に留学。ニューヨークで金融会社に就職)は崩壊寸前の家族に苦悩していた。長男の洋は、中学2年生からほとんど不登校だった。上級生から万引きなどを強要させられたようだ。高校は同じような状況の子が通学する私立学校に進学した。彼の自尊心がすっかりなくなり、自信喪失をしたのだ。父親が「学校がすべてでない。人生は死ぬときにその人の価値が決まる。無理に大学に進学しなくともよい。将来、勉強したくなったときに大学で学べばよいのだ」と、説得した。欠席が年間40−50日でも、なんとか高校は卒業できた。

洋は昼寝て夜起きる生活を22歳まで続いた。清二は仕事とボランテイア活動で自宅を留守にすることが多かった。父親不在、母親&息子の二人三脚のような、溺愛の変形の家庭になった。
洋は母親とは、喜んでいつでも、どこにでも出かけた。父親とは高校卒業までは、時々であるが少しは会話があった。



高校の親子面談に清二は洋と学校で担当の先生と会ったことがあった。先生が「洋君は欠席と遅刻が多かったが、試験はいつも上位だった。本当はよく勉強してたのだねえ。」と言ってくれた。清二はうれしかった。
洋は、まだ、若い、将来は明るいのだ。

しかし、大学入試を3回失敗してから、父親の清二とは会話がゼロになった。
息子よ、落ち込まなくともよいのだ。
人生には回り道はないのだよ。

洋は進学塾にも行ったが、大学入試失敗が続き、2年前から「もう、自分は、父親を超えるのは無理だ。」と感じるようになったのだろう。この頃から洋の父に対する反抗がひどくなった。息子がいる父親は、貧乏で馬鹿がよいのだろうか?


洋が中学生の時に自分の部屋の柱に書いた決意文。清二は父親として彼の悩みを
理解してやれなかった。父親失格だ。

清二が昼寝て夜起きる洋に、「学校に行くか、仕事をするか、どちらかを選べ。青春の時間を無駄にするな。外に出て友達を作るのだ」と、注意したら、息子は「何をぬかすか。お前をぶっ殺してやる」と、はさみや鉄棒を振りかざすようになった。妻は料理の包丁などを洋の目が届かないところに隠していた。いつ父と喧嘩が始まるか恐れたのだ。

7月には清二の背後から「お前を殺してやる」と羽交い絞めにしたのだ。
このときは、洋は泣いていたので、まだ、再生できる。今回が最後の立ち直りのチャンスだった。

洋が小学生の時の年度細工
洋が小学生のときに作った粘土細工


妻が泣き叫び洋を必死に止める。我が家はもう終わりだ。
妻は心労で食欲がなくなりやせてしまった。

清二と和美が、2年ほど前から話し合っていた、「私たちのどちらかが、家をでよう」を実行しなければ、自宅で殺人が起きる状態になった。
清二は夜寝るときには、自分の部屋の内側に施錠した。
夜中に息子に襲われるかもしれなかったのだ。
家庭は、崩壊した。

清二は洋に子どものときから、「お前の母は俺の女だ。お前は自分の女、連れ合いを自分で探さなければならない。家族は両親が中心で、子どもは18歳になったら、家を出て自立をしなければならない。自立とは、経済的に独立することだ。ただし、大学でも専門学校でも勉強するのであれば、卒業まで、親の立場で資金援助はする。仕事もしない、学校にも行かない、自宅でただぼんやりの暮らしはお前を台無しにする。」と、進言した。
最近はその言葉にも、洋は逆上して、父親の清二に「お前をぶっ殺してやる。」と襲い掛かってくるのだった。

ついに妻はうつ病気になり、通院するようになった。

20歳を過ぎた洋は父に同じことを言われるのがいやで、昼は寝ることに決めたらしい。
清二は息子の部屋に5年も入って行けなかった。
洋は自分の部屋の入り口のドアに黒色で、「開けるな!」と大きな文字で2列も書いていた。だから父親の清二も入ることができなかった。

子どもは親の鏡と言う人がいるので、父がが悪いのだろうか?


清二はモンゴルから次の手紙を洋に送った。彼の手元に届いたことを願っている。

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父から息子の洋へ。            2007.9.            
元気ですか? 

この手紙は、父親として、息子のあなたに対して、おそらく、最後になるでしょう。私が生きている間は会うことは無いかもしれません。ですから、最後まで読んで下さい。

父の願いは、「あなたは一人で家を出て、自活、自立をすることが、現在の我が家の危機を救う、最善の方法」です。
22歳の男が、社会に飛び出すには、勇気が必要かも知れません。しかし、老母を道ずれにすることだけはやめてほしいのです。

万一、母と一緒に家を出て、生活を始めても、母はまもなく介護が必要になるのです。必ず、そのときがやって来るのです。あなたが一人の場合、母の介護で外出や仕事もできなくなります。

あなたの人生も暗くなります。最悪の場合「母と息子の心中」の可能性もあります。老人ホームに入れるにしても、入居に2,000万円前後、生きている間は毎月25万円前後を、あなたは払えますか? 今のあなたはそのことを考えていますか?

老母を道ずれに家を出る場合、母の今後とあなたの今後の結末が悲惨になります。

父は「子どもは子ども、親は親でそれぞれ幸せを求めて別行動をとる。」ことだと思います。それが、お互いの信頼になります。

父はあなたの母を好きになって結婚したのです。そしてあなたも生まれたのです。これまでは、あなたの母に苦労をかけ、まことに申し訳なく思っています。

しかし、今後は、夫として、妻の、あなたの母親をいたわり、大事にしてゆきます。あなたの心配を取り除きます。

父は、今も、自分の子の、あなたと雅子が可愛いのです。「親の本能」です。
どうか、あなただけの勇気ある決断が、我が家を救います。

モンゴルにて
父、清二より

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妻との別れ

妻が洋と家を出ることに決めてから、2007年7月のある日、清二がモンゴルに来る直前、近所に住む清二の親戚に挨拶に行き、家族がばらばらになる話をした。 「64歳の母親が、22歳の息子と、駆け落ちのように家を出て、一緒に住むなんと、気持ちが悪いよ。和美さん。それは、異常だよ。もし、2人が連れ立って家を出て生活をするようになったら、息子は40歳になっても、50歳になっても、永久に自立できないだろう。老母が寝込むと、息子も介護でくたくたになるし、共倒れになる。22歳になった息子が一人で家を出て、強く生きて、自立をすべきではないですか? それが正常な家族ではないですか?」と妻に進言してくれた。

親戚の言葉は、清二が数年にわたって妻に述べた内容と同じだ。妻の行動は異常だが、自宅で殺人事件が起きてはもっとひどい結末になる。

清二は妻にも、お父さんの「子どもの自立を促すために投げた言葉は、絶対受け入れられない」と言われた。それは、清二が「ライオンの親は子どもを谷底に突き落とし、自分の力で這い上がってきた子だけ育てるという。子育てに、人間の親も、同じような気持ちが必要のときもある。成人になった息子を自立させるため、一人で家を出すべきだ。子どもと親の人生は別だ。」に対し、妻は拒絶反応をしたのだ。

妻は「息子も私も一心同体」だった。
和美は「お父さん。洋の自立は私が責任を持って果たします。私に任せてください。」

清二は結局、妻の主張に同意して、財産の分与と年金の分割に同意した。特に現金は十分、一戸建て住宅の購入資金と生活費に十分な金を与えた。生涯金に困らない生活ができるだろう。清二は和美に銀行通帳など、金の管理はすべて任せていたので、和美は別に、自分名義の銀行口座にも数百万円をためていた。「雨の日に備えていたのか?」清二は息子の洋が生まれるころまで、妻には金で苦労をかけた。離婚しても、その恩には報いたい。妻には、「金はあなたが好きなだけ持っていってよい。私はこの住む家だけあれば十分だ。」と7月にモンゴルから一時帰国したときに伝えていた。

妻には、「息子の自立にめどがたったら、いつでも、私の所に帰っておいで。」を口頭で、また、別れの手紙にも述べている。清二は、妻が「帰りたい」といえば、いつでも笑顔で迎えるつもりだ。

風の頼りに聞けば、妻は息子と、福島県の太平洋岸に近い、雪が少ない村で生活しているようだ。洋は人間関係が築けない。農業をしながら自然と対話をして、村の青年たちと交友を持てば自信も取り戻すだろう。風の便りでは、2人は生川から妻の旧姓に変えた。清二から全ての縁を断ち切ったのだろうか? 和美は清二と別れるときにもらった金で中古の住宅を買ったそうだ。

清二はいつの日か、嫁と子どもを連れた洋に会えることを願っている。その日が来ることを夢見て生きていた。

清二は人生で一番愛していたのは妻の和美だった。
清二は、時々、夢の中で、和美を抱きしめるのだった。
今は「昔の物語」だ。

和美は2人の結婚記念の写真、子ども2人が幼かった、毎日が笑い声がいっぱいのときの写真も引越し用の荷物に入れた。気持ちの整理がついたとき、ゆっくり見てくれるだろう。

夫婦喧嘩はしても、いざ離婚となると、清二も妻も泣いた。27年間も一緒に暮らし、苦労をともにしてきた、そして、子ども2人を生み、育ててきた夫婦が、なぜ、分かれなければならないのか。なんと、つらいことか。

我が家にとって「子どもはかすがい」にはならなかった。
子育てに失敗した親が、その子どもに夫婦を引き裂かれる。なんと、つらいことか。

妻と息子は7月に清二と打ち合わせをしていたように、清二がモンゴルから帰国する2日前の、10月8日に、当面必要とする自分で選んで買った、冷蔵庫、洗濯機、布団、家具などを運送業者に依頼して家を出た。彼女の書き置手紙の最後は「お世話になりました。さようなら。」

清二はがらんどうになった、破棄処分となった、ごみが散乱した部屋で大声をあげて泣いた。この日を予期していたはずなのに、人生はなんと過酷なのか?

清二は、モンゴルにU-ターンする前、一日、故郷の亡き父母の墓参りをした。墓前で自分の家族の崩壊を報告した。線香に火をつけ、墓の前に伏せて号泣した。この年になっての親不孝だ。 今は亡き親に申し訳がない。
兄弟姉妹にも報告した。皆が涙を流してくれた。10歳年下の弟からは、「いつも強気の兄貴がこんなに参っているのを、初めて見た」と言われた。
兄弟からは「10年ほどの、時間だけが解決する。それ以外に解決の方法はない。」と言われた。
どこの家庭も、それぞれ、問題を抱えているのだ。

本当に、生きることはつらいことだ。



エリートだった

清二は国立大学の法学部卒業後、日本の大手銀行に就職して10年働いた。会社派遣でアメリカの東海岸のボストンの郊外にある、バードン大学に留学してMBA(経営修士課程)を卒業した。帰国後ヘッドハンチングにあい、33歳でアメリカのウイルソン・ゴーマン証券会社東京支店に転職した。企業の合併&買収(M&A)の、華やかな、大型商談を取り仕切ったエリートだ。年収は毎年2億円くらいだった。英会話は日本語以上に達者だった。テレビや新聞に彼の金融に関するコメントが毎日くらい掲載された。日本では有名人だった。
当時の清二は、就職活動をしている大学生の「将来の夢」だった。

夜は黒いスーツと赤いネクタイの身なりで、お抱え運転手つきの、黒い大型社用車で銀座や赤坂の料亭やクラブに乗り付けた。海外の大手金融のお客さん相手に商談をしたことが多かった。

1980年代後半から始まった金融の自由化、世界化で、寝る時間がなくなった。部下は50人くらいで半分は海外の有名大学留学でMBA取得者だ。金融の前線は、製造業や小売、農業、漁業従事者とは別世界だった。

一秒で数億円稼ぐこともあり、損することもある。清二の部門には30歳代で年収1億円以上稼ぐ若者は多かった。昼間はパソコン画面を一人で5個も見ながら、電話を3つ持って、興奮しながらのデイーリング・ルームだ。夜はクラブで酒と女だった。5人で100万円を使うのが当たり前だった。1万円札で紙飛行機を作って、お気に入りのホステスめがけて飛ばす競争もした。1980年代のバブル時代は新宿の歌舞伎町で「ノーパン・パブ」(ウエイトレスが下着を着けない。床が鏡になっている)でも札束を撒き散らしたのだ。
社用で使うのだから「交際費」で必要経費だ。
その金? もちろん、最終的には、金融を利用する庶民が負担するのだ。こんなことを、今、公表してよいのだろうか?

清二は、あのバブル時代の1980年代後半、南太平洋の島に休暇村を作ることを、日本の成金建設会社に勧めた。費用は2千億円だ。その会社の背後には、派閥で経営者になった二流銀行の頭取がいて、銀座や赤坂や歌舞伎町で接待をした。酒と色仕掛けだった。当時の日本では土地を担保にすれば銀行はいくらでも金を貸してくれたのだ。日本人は、「もう、欧米に学ぶことはなくなった」と有頂天になったのだ。数年後、バブル経済が崩壊した。「村」は倒産して廃墟になった。頭取は自分の社長室で首吊り自殺した。人を殺すのに刃物は不要なのだ。頭取が自殺したその夜も、清二は銀座で酒と女だった。世は無情だ。生きていることだけが現実だ。勝者だけが美酒を飲むことができるのだ。

大手金融の、北海道拓殖銀行や、山一證券会社も同じころ倒産した。中国で大々的に店を展開していたヤオハン、百貨店のそそごうなど、経営がどんぶり勘定だった企業は全て倒産した。海外の大学でMBAを習得した30歳代の若者が金融の現場の中心になった。

その頃アメリカでは、ニューヨークのウオール街に高給を求めてエリートが集まり、「金融工学」なる言葉が流行したのだ。実態とかけ離れたところで「マネー・ゲーム」を続けていた。「ゲーム」の対象は、何でもよいのだ。金、土地、建物、飛行機、油、コーヒー、しかも、借金まで、投資の、金儲けの対象になった。

清二は、毎月のロンドンやニューヨークの出張も年齢とともに疲れてきた。もっと、人間らしく生きたいと願うようになった。特に、48歳ではじめた、アジアの子どもを飢餓と貧困から解放する運動を主宰するようになって、「金が商品、金がすべての価値基準」の世界から逃げたくなった。
アジアの貧しい国の、必死に生きている子どもたちと、清二の職場の落差が大きすぎるのだ。同じ地球の同じ時代に生きているとは、とても、信じられないのだ。

清二は特に、1998年、北朝鮮の大洪水が原因の飢餓現場で、骨と皮にやせた幼児に食料配布をしてから、「子どもは生まれる親、国を選べない」から、「救わなければならない」に傾斜した。ボランテイア活動が一段と多忙になったのだ。
清二は、そのような日常が「世の中。どっか、おかしい」と思うようになった。


清二の収入は多いが、仕事は少しずつ少なくなった。
緊張感もなくなってきた。
もう、そろそろ、潮時か?
会社の業績にも浮き沈みがある。
人員の削減、リストラも始まった。

60歳で退職し、4年間は安い平日のゴルフ、週末はボランテイアとしてすごした。日中は息子と自宅で顔を合わさないためだ。時々、モンゴルの現場に顔を出した。現地雇用者の訓練のためである。

清二は年をとった。人生の週末を迎えて、人間を取り戻したいと願うようになった。
妻の和美もつかれ切っていた。
家族がばらばらになるのを止める方法はなかったのか?

真夜中の2時、遠くや近くのゲルから、犬の遠吠えが聞こえる。コンテナの前20メートルの幹線道路も車は通らない。清二は異国で静かに眠りについた。


2017年

清二は74歳になった。17歳のとき、田舎の医者に「君の心臓の弁膜症は重い。不整脈もひどい。安静な生活が必要だ。40歳まで生きられるかどうか分からない。」の宣告を受けていたが、なんと、この歳まで生きることが出来たのだ。エルデネも35歳になって、相変わらず子持ちの独身ママだ。彼女は「モンゴルの男は嫌い。すぐ、酒を飲んで家出する。」とのこと。今では、清二の代行もできる大事な仲間だ。清二は数年前に、彼女と再婚して、モンゴルに永住を真剣に考えたが、時間はそのまま過ぎた。

清二は、2017年1月1日の朝をモンゴルで迎えた。相変わらず、少ない頭髪とひげはぼうぼうだ。顔のしわが増えた。寒い。気温は零下30度C.日中でも零下20度Cだ。事務所の隣のゲルの「子どものホスピス」からの歓声が寒さを吹き飛ばす。この子どもたちと新年を祝った。

清二は一人ひとりを抱きしめた。幸せな正月だった。
この子たちの命は、日本の子と比べたら、あまりにも軽い。
今日は生きているが、明日はわからないのだ。
出来ることなら、
人は誰でも、子どもでも、
最後のときは笑顔がほしい。

清二は7年前から身寄りのない難病の子どもたちの、「死ぬ行く前のひと時の楽園」を運営しているのだ。入所者は18人で5歳か

ら13歳までである。うち、HIVのエイズ感染者が10人で、あとは、筋デイストロフイー、心臓病などである。最近の10年でエイズ感染の子が急増した。2007年ごろから、隣の中国人が経済の繁栄で、貧しいモンゴルの女を買いにくるのだった。1970年代の日本の行儀の悪い海外旅行者そっくりだ。その頃にフイリッピンに旅行した日本の男と現地の女との間に、なんと、3万人の子ども(通称名はジャピーノ)が生まれたのだ。
いつの時代も、男は無責任だ。










洋がモンゴルへ

清二にとってうれしいのは、昨年から、一度は親子の縁を切った息子の洋が、盆と正月の休みを利用して手伝いに来てくれた。32歳になった洋は結婚して福島県で妻と子ども2人がいるそうだ。74歳の母親の和美と合計5人で暮らしているそうだ。幸せそうで良かった。昨年の春、前ぶれもなく、「自分のルーツを探しに来た。親父に会いに来た」と、はるばる、モンゴルまでやってきてくれた。

時間が洋を変えたのか?
人は年月を経て変わるのだ。
価値観も、人生観も変わるのだ。
最大の問題と思っていたことが、
後から振り返れば、ささないことが多い。

昨年の夏、頭髪とひげが伸び放題の清二を見て、一瞬、立ち止まった洋は、10年ぶりに会った父と抱き合った。清二は「俺が悪かった。許してくれ」と号泣した。洋も泣いた。2人の涙が止まらなかった。清二は洋を抱きしめたのは小学生のとき以来だった。洋は顔が日に焼け、頼もしく立派な父親に見える。人間関係が得意でなかった洋は、福島県でビニールハウスを利用した野菜つくりをしているとのこと。安定した生活で家族5人で幸せに暮らしているとのこと。ここまで、息子を面倒見てくれた別れた妻と洋の奥さんに感謝しなければならない。父と息子はお互いが抱いていた過去のわだかまりをやっと、捨てることができた。

洋は、まもなく死んでゆく子どもたちの相手を体験し考えた。
人は誰でも死んでゆく。
生きるとは?
洋は、「自分は誰のため、何のためにいきるっか?」を考えた。

汚れた子どもを抱っこした洋は、満足の様子だ。
洋に抱かれた子どもたちは、「人間の尊厳」をもって死ねるのだ。
見放された子らに誰が最後の愛情を与えるのだ?

生まれた国が貧しいゆえに、難病の子は大人になる前に命が尽きるのだ。日本では、問題なく治る病気も、ここでは無理なのだ。首都の人口は200万人に増えた。半分が上下水道のないゲル地区のスラムに住んでいる。トイレは穴を掘って、簡単な屋根と板の壁を作り、穴の上に板を敷いているだけだ。

子どもたちは常に空腹で、母親は大部分が無職だ。
ほこり、あかだらけだ。身体を洗わないので、悪臭もしている。
ここは世界が違うのだ。
母親と子ども2人の3人家族で、月5千円の収入だけで、たえず、飢餓に直面している。明日は食べられるか、誰にもわからないのだ。

清二の団体は、2007年モンゴルに法人登録して、独立した活動が可能になった。ゲルを利用した子ども移動図書館は10年余り継続して運営している。モンゴルの学校の図書館には「物語」の絵本がないのだ。
また、この施設ではビタミンDをクル病対策で、温かいミルクを「栄養失調」の子どもたちに与えている。「総合子どもセンター」のようなものだ。

無職の母親には、市内3ヶ所で、「市場」を開設して、母親たちが品物を持ち寄って出店している。店も市場の運営も元無職の母親たちだ。経済的な自立プログラムが軌道に乗ってきた。


首都の南東のナライハ村(人口3万人。95%が失業)で2010年に始めた、10代の未婚の母親対象のパソコン研修プログラム継続中で、現在までには修了者が300人を達成した。

エルデネがこれらの現場の監督をしている。彼女なくしては清二は何もできない。
清二は最近、あと数年で、彼女をモンゴルの総監督にして、日本で静かに余生を送ることを考えるようになった。
清二は人生の半分くらいの時間を、自分の家族とは関係のない子どもたちに費やした。

もう、そろそろ、潮時か?


74歳の清二は息子の洋と仲直りしてうれしい。洋は、来年は首都のウランバートル南西約300KMのマンダル・ゴビ市近郊で「フリー・スクール・イン・モンゴリア」でボランテイアを希望している。このプログラムは清二が2008年から始めた。息子の洋に対する懺悔の意味で、同じ悩みを抱いている親と子を解放したかった。幸い、自分には「父親失格」の経験があった。人間関係を作るのが苦手な、日本の不登校、非行の子どもたち、また、いじめを受けた子どもたちを4月から9月までの半年間、遊牧民のゲルで暮らすのだ。 自然と家畜を相手に、学校や家庭を忘れて自由な生活から人間を取り戻すのだ。年間20名が日本全国から、親元を離れてやってきている。毎年参加希望者が多く、受け入れの増員も考えている。
このプログラムは非常に画期的で、日本全国に新聞やテレビで紹介された。


(2017年現在。人口350万人。国土は日本の4.2倍。高原の半砂漠。放牧が主産業)

洋の体験や経験が100%役立つのだ。
経験や体験ほど優れたものはない。
洋は地獄を見た。
洋は「先生」になれる。
人生は何事も「遠回りはない」のだ。
人の評価は死んで棺おけに入るときに決まるのだ。
将来をあきらめてはだめだ、
夢を、夢を持ち続けるのだ。
夢と年齢とは関係がない。
いつも、心に夢を持ち続けるのだ。

人は一人では生きてゆけない。
お世話になった人々に感謝をしながら、
いつかは、その人々にお礼をするのだよ。

2012年1月末、清二は、次年度の受け入れの打ち合わせを、計5つのゲル家族とするため、マンダル・ゴビニ向かった。途中、天候が変わり、猛烈な吹雪になった。 平原の道が雪で判別不可能になった。雪の多い地域では道を見失うことはとても危険である。
生死にかかわるのだ。 立ち往生した挙句、燃料切れで凍死するか、大雪が車に覆いかぶさり、排気ガスで窒息死するかである。清二がアメリカに滞在中でも、そのような事故がおおかった。ましてや、この道路網が不備のモンゴルではありふれたことだ。吹雪になったら村落から離れないことだ。




清二のマイクロバスは、目的地のマンダル・ゴビから捜索隊が出て助かった。 到着時間を5時間も遅れ、後から同じ会社のマイクロバスが先に到着していたのだ。 モンゴルの草原の自然環境は夏と冬では、世界が変わる。 冬の行動は人々の時には死に至る。

平原の吹雪は恐ろしい。人も家畜も死ぬのだ。
夏の砂嵐の比ではない。

モンゴルの夏の緑の草原は平和そのもの。
行けども、行けども、草原が続き、人影はない。
遠くには白いゲルが点在して、家畜がゆっくり移動しながら草を食べている。
らくだ、馬、牛、羊、ヤギ、ヤクたちの国だ。
番犬が人と家畜を守っている。
人は誰でも、時間が止まった錯覚におちるのだ。



人と建物で混雑している日本から草原にやってくれば、まさに、天国だ。
清二は子どもたちと乗馬で地平線めがけ、競争をするのが楽しみだった。
モンゴル人は5歳ころから乗馬できるのだ。
モンゴルの緑の草原と宇宙の果てに抜けるような青空は、人間の汚れを流してくれる。

1990年、モンゴルは共産主義体制から、民主化・自由化に変わり、ソ連軍の駐留もなくなった。小規模な牧畜も自由経済の波に洗われた。仕事がなくなった。若者は首都の学校を卒業して故郷に帰ってこない。 家畜の増減は自由になり、ヤギの毛がカシミヤとして高く売れるので、ヤギが増えた。ヤギの前歯は草の根まで食べられるのだ。結果は、平原の砂漠化に拍車をかけた。

人々は、首都に移動した。国の人口の半分が押し寄せた。でも、首都にも仕事がない。
草原の家畜の放牧には理想的な、丸いテントのゲルは、都会に持ってきても移動しないから、土ぼこりがたまり、黒ずんで、汚いスラムの家屋となっている。

自然は人間の都合は知らない。
地方は、首都のウランバートルの喧騒とは別世界だ。

モンゴルの大自然と、夏の草原は、人間社会の醜さは忘れる。
人は、
自然に従え、自然に学べ。
自然は真理だ。



清二は異国で74歳になった、人生あとわずかの時間を残した。明日の時間はないかもしれない清二は、心残りが一つあった。
それは、
あの世に行く前に、別れた妻の和美にもう一度会っておきたいのだ。

今頃、何をしているだろうか?
元気で暮らしているだろうか?

長女の雅子はアメリカ人と結婚してニューヨークの郊外に住み、子どもが2人いるそうだが、清二は、もう、10年も会っていない。

雅子は、この抜けるようなモンゴルの青空のかなたで、元気だろうか?

家族が揃って暮らすのは、子どもが20歳までだ。その後は、子どもは子ども、親は親で、世界のどこで暮らしていても、元気で幸せに生きていれば、それで十分だ。

人も自然の真理に従おう。

2021年12月31日

清二は78歳になった。一年のほとんどをモンゴルで暮らしている。子どもたちや母親の自立プログラムはエルデネを中心にすっかり軌道に乗った。彼女は38歳になり、日本も含め、海外での研修で、もう、清二の助けは不要になった。

マンダル・ゴビは人口約5千人の小さな町だ。以前住み込みで働いていた、ムク君は現在、「フリー・スクール・イン・モンゴリア」の学長だ。彼の父親はこの町からさらに
50KMも西方で、馬300頭、牛100頭、ヤギと羊1,500頭の、モンゴルでは大きなゲル牧畜の経営者だ。2008年から清二の理想に共鳴して、日本の子どもたちを親戚5家族で受け入れている。
日本の不登校、いじめにあった子、非行の子どもたちの受け入れは、ビジネスとしても成り立つのだ。

今年から、初めて通年で10歳から18歳までの男女を日本から受け入れている。この冬は15名だ。理由は自然のやさしさ、厳しさを体験する為には、北国で冬を過ごす必要がある。極限の環境で、人や、家畜や、植物は、どのように耐え、そして、温かい春を迎えるのかを体験するのだ。人生そのものである。

問題を抱えている子も、ここでは、何も問題がないのだ。
日本では、なんでもないことを問題にして、子どもをだめにする。

日本では居場所のない子どもたちは、モンゴルの体験ですっかり変わり、強くなるのだ。
ここでは、それぞれ、することがある。馬に乗って家畜の放牧の管理。犬がお供をする。
朝夕の乳搾り。バターとチーズつくり。夏場は家畜の糞拾い。乾燥したのは貴重な燃料である。草原では木がないのだ。

地元の子たちと乗馬で競争だ。360度、どの方向に思いっきり走っても、障害物がないので、気持ちがよい。 慣れた馬は、子どもの命令にも従う。馬は生まれたゲルに帰る習性があり、はぐれても夜には帰ってくる。 馬は人を乗せて闇夜でも疾走する。便利な乗り物である。
ゲルは移動式テントで、カバーは白が多い。白は夜も昼も遠距離から識別が簡単なのだ。

清二は、零下30度Cの薄暗い朝10時に、雪が20CM積もった、首都のウランバートルをレンタ・カーの小さなセダンで出発した。日本からの支援物資を満載した。マンダル・ゴビを目指した。自分で運転して300KMを少なくとも5時間で目的地に着くだろう。清二は2007年にモンゴルの自動車運転免許を取得した。モンゴルではほとんど運転しない。夏だと3−4時間の距離だ。道は舗装していない。泥んこ道だ。モンゴルの草原はどこを走ってもよいのだが、冬の雪野原はタイヤの跡を走るのが鉄則である。

エルデネ外、モンゴルの友人は「生川さんだけは危ない。モンゴルの天候は急変が当たり前ですよ。 吹雪と雪の平原で道に迷い、燃料切れの車の中で暖房も切れ、凍死するものが多い。」

「生川さんは、一度、雪野原で死にかけたのだから、無理だよ。死ぬよ。」

遭難

猛烈な風が吹き始めた。ウランバートルを出て、2時間積雪の平原を走ったときだ。夏の砂嵐は暴風雨がやってくる前ぶれだ。冬は猛烈な吹雪の前ぶれだ。冬は積雪を舞い上げ、一寸先が見えなくなる。清二はやむ得なく、嵐をやり過ごすことにした。強風で車が横転の恐れがあるので、車をくぼ地に止め、エンジンをかけたま車内の暖房を保った。

多機能の時計は12時を指していた。ま、2時間程度で吹雪もおさまり、清二は、あと3時間程度の運転で目的地に着くので楽勝を予想した。午後、4時までには子どもたちのゲルに着けるだろう。車の外は猛烈な吹雪だ。清二は、日本から持参して、いつも聞いていた今はなき、大演歌歌手の美空ひばりの「川の流れのように」をDVDで聞いて大声で一緒に歌った。10余年前に妻と離別したときの思い出の曲だった。清二は疲れのため、まもなく寝込んだ。

清二は目を覚ました。腕時計は午後2時を指していた。吹雪はますます激しくなって、地響きを立てて荒れ狂っている。人は立っていることさえ出来ない。腕時計の「気圧の変化と予想」をみたら、なんと、「気圧はさらに低くなる」だった。食料は菓子類を持参したが、問題は車の燃料だ。

特に寒い日は、家畜は、南向きの日の当たる山の斜面を利用して暖をとるのだ。
零下30−40度Cになると、家畜も死ぬことがあるのだ。

くぼ地に止めた車は、強風で運ばれた雪で半分以上埋まってしまった。清二は手袋、防寒着を身につけて、念のため車内に積み込んでいたスコップで、車の周囲の除雪を始めた。排気ガスが車内に充満して窒息死を防ぐ為と、200M近くの主要道路を通る車に援助を頼むためだ。しかし、車が通らない。吹雪で視界が悪いのも原因だ。

車の燃料のゲージがどんどん下がってゆく。清二は不安になった。吹雪は止まない。
もしかして道を間違えたのか? 夏の草原でも、モンゴル人の運転に慣れた人でも間違うことがあるのだ。草原は好きなところを走るので、道幅が数百メートル、広いところは1KMもあるのだ。日本では信じられない。

腕時計は午後5時を指し、30分刻みの気圧予想は相変わらず、下の線をそのまま右を表示していた。天候の急速な回復は望めない。燃料はほぼなくなった。本来なら、この時間には目的地のマンダル・ゴビのゲルに到着しているのだ。道も間違ってしまったようだ。
こんなに寒いと、エンジンを止めた車は再スタート出来ないのだ。バッテリーが凍って「万事休止」だ。

清二は冬の平原を体験済みだったが、今回は自然の厳しさを、甘く考えていた。

冬の平原で車が動かなくなったら死を意味する。
360度。雪の地平線だ。

snowstorm

妻と再会


午後7時。嵐は通り過ぎた。遅かった。車の燃料がついになくなった。ゲージがEを指して30分はもったが、エンジンが止まった。わずか5分で車内は外の気温と同じになった。清二は持っている全ての服、靴下、手袋を身につけた。 車は屋根まで雪に埋もれた。排気ガスのところだけはスコップで除雪していたが、これでは、平原で車の場所はわからない。

清二はわずか1分の立小便のため車の外に出た。
寒い、寒い、寒い。
寒さで震えた。

車と雪の隙間で放尿しているとき見た星は、闇の中の真珠のように輝き、手が届くほど近くに見えた。北斗七星は日本で見る3倍の大きさであった。嵐が止んでも車の通過する音が聞こえない。静かだ。

寒い、寒い、なにもかも、氷になってゆく。
あの、第2次世界大戦で、旧日本軍捕虜たちは、このような寒さで死んだのか?
このモンゴルで、青年たちは、祖国の帰るのを夢見ながら死んだのか?


雪に覆われた車の中で、清二は大声を出して「川の流れのように」を歌った。
それでも、身体はどんどん冷えてきた。
足も手も冷えてきた。
窓ガラスも氷になった。

手足の感覚が無くなった。
寒い、寒い、寒い。

今。寝込んだら死を意味する。
「清二よ。寝てはだめだ。」
「起きろ。起きろ。起きろ。」
誰かが叫んだ。

清二は目を開けていたが、やがて意識が朦朧としてきた。
清二は「この世も、あの世もわからなくなった。
「自分は今、どこにいるのだろうか?」

やがて、清二に、

ゲルで待っている子どもたちの歓声が聞こえてきた。
「生川のおじちゃん。遅かったね。」

数分後に、生まれ故郷の父と母が現れた。
清二よ、
「寒さに負けるな!」
「寝てはだめだ。起きろ。」
「頑張れ、頑張れ。」 


しばらくして、

女の声も聞こえてきた。

清二は徐々に、意識がなくなった。

遠方から、
誰だろう?
懐かしい声だ。
声はだんだん大きくなった。

和美だった。
「うれしい。あなた、日本に帰ってきたのね。」

清二は自宅の玄関に座り込んだ。
しかし、
寒さで動けない。

和美に会いたかった。
別れてから、毎日、「きっと再会できる」を信じて、
清二は、それを力に生きてきたのだ。
再会を夢に生きてきたのだ。
会いたかった。会いたかったよ。
胸が張り裂けるほど長い時間、この再会の夢を求め続けていた。

和美は、半透明のガラスの向こう側で素裸になっていた。
温かい風呂の湯気の中に立っていた。

半開きのドアから顔を出して清二に、
「あなたも、温かい風呂に早くいらっしゃい。」

捜索隊は翌朝、車の中で清二の死を発見した。
紺青の空、無風の白一色、雪の平原だった。



享年78歳。
合掌










2009.11.12. revized.
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